年金を受けて・・・

1513年と1516年にはローマにいた(このころはミラノ・フィレンツェ・ローマをたびたび移動していたようである)。当時、ローマではラファエロやミケランジェロが活動していた。ラファエロはレオナルドの絵を模写し、影響を受けているが、ミケランジェロとの接触はほとんどなかったようである。


フランソワ1世に抱かれて死ぬレオナルド1515年に即位したフランス王フランソワ1世は、同年にミラノを占領した。この時、レオナルドはボローニャで行なわれたフランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平交渉の締結役に任命され、(恐らくは、このとき初めて)フランソワ1世に出会った。以後、フランソワ1世の庇護を受け、1516年からは王の居城アンボワーズ城に隣接し、フランソワ1世が幼少期を過ごしたクルーの館(クロ・リュッセ)に招かれ、年金を受けて余生を過ごした。

1502年8月から

1502年8月から、レオナルドは教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の庶子)の軍事顧問兼技術者として働いた。しかし8ヶ月程度でフィレンツェに戻り、アルノ川の水路変更計画や、ヴェッキオ宮の壁画(後出)などの仕事に従事した。

1506年、スイスの傭兵がフランス軍を追い払うと、マクシミリアン・スフォルツァが治めるミラノに戻った。そこで、後に生涯の友人となり、後継者ともなったフランチェスコ・メルツィに出会った。

ミラノを離れる

1499年10月、ルイ12世率いるフランス軍が侵攻すると、イル・モーロは逃亡し、ミラノは戦わずに陥落した。レオナルドはミラノに留まったが、フランス軍の射手が騎馬像の粘土原型を練習の的にしているのを知り、ミラノを離れることにした。1500年、弟子のサライ (Salai)や友人のルカ・パチョーリと共にマントヴァへ行き、2か月後にはヴェネツィアに、暮れにはフィレンツェに戻った。

ジャコモ

1482年から1499年にかけて、レオナルドはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)に仕えながら、自分の工房を開いて独立した。レオナルドはイル・モーロから巨大なスフォルツァ騎馬像の制作を依頼されたが、戦争が迫ったため騎馬像のための銅が大砲の製造に転用されてしまい、計画は頓挫した。レオナルドはミラノで、ジャコモという非常に美しい少年を引き取った。ジャコモには盗み癖があったが、レオナルドはサライ(=子悪魔という意味)の愛称をつけてかわいがったという。

フィレンツェにて

確証には欠けるが、レオナルドは14~16歳でフィレンツェに移ったとされる。画家見習いとしてアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りし、ボッティチェッリらと共に学んだ。この工房でヴェロッキオの絵画『キリストの洗礼』の一部を描いたが、その出来は師匠ヴェロッキオを驚愕させ、以後ヴェロッキオは一切筆をもたなくなったという逸話がある。レオナルドに嫉妬したという説もあるが、工房の絵画部門は彼に任せて本業である彫刻に専念した、というのが真相らしい。 1472年にフィレンツェで画家組合「サン・ルーカ同心会」に登録されている。

幼少期

幼少期のレオナルドは、原因は不明だが正当な教育を受けず、自然とともに暮らしていた。当時から左手で鏡文字を書いたと言われるが、これは彼が読み書きの教育を受けなかったためともされる。この時期に、自由奔放な性格だったと言われる叔父から影響を受けたと指摘されている。彼の文字の癖は、父の公証人という仕事を継ぐことに大きな障害となった。(当時、私生児は公証人になれないという規定があったため父の仕事を継げなかったという説もある)

家族

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母カテリーナ (Caterina) は農民あるいは木こりの娘といわれ、詳細は分かっていないが、ヴィンチ家に頻繁に出入りしていたとされる。父とカテリーナに婚姻関係は無い。しかし、「セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」という名前が与えられたことと、祖父アントーニオの日記に生まれた様子が詳細に記載されていることから、私生児とはいえレオナルドが望まれない子供であった可能性は低い。カテリーナはレオナルド出産の数ヵ月後にアントーニオ・ディ・ピエーロ・デル・ヴァッカ・ダ・ヴィンチに嫁いでいる。父セル・ピエロも同時期にフィレンツェ出身のアルビエーラと結婚した。

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レオナルドは1452年、イタリアのアンキアーノ村で生まれた。生家は現存する。
5歳からすぐ隣のヴィンチ村に移り住んだ。ヴィンチ家は13世紀より続くヴィンチ村では
名の通った血筋で、父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ (Ser Piero da Vinci)は公証人を務め、
家は裕福であった。